Willhelm Karl Grimm



 どれだけ向こう岸に目を凝らしても、大好きな人の住む家の明かりは小さな点にしか見えない。船は天帝の許しがなければ渡すことは出来ないし、彼女の心強い味方である魔法書は、一年前に取り上げられている。今日だけでもう何度目かも分からないため息が口から零れた。
「…あら?」
 見つめた向こう岸の一点から、違う光が段々と近づいてくることに気付き、開いた窓から身を乗り出す。最初は星が流れたのかとも思ったが、間違いなくそれはこちらに向かっている。
 もしも船だとすれば、向こう岸に戻るときにうまく潜り込めば会えるかもしれない。胸に淡い希望が灯り、部屋から飛び出し川辺まで一直線に駆けて行く。見つからないように身を低くして辿り着く頃には、光の正体がはっきりと見えるところまで来ていた。
「…幽霊船、かしら?」
 星々の川を渡る風を孕んで広がる真っ黒なマスト。鍔の広い帽子を被ったシャレコウベが大きく白で描かれている。普通の船なら、美しい水の精が飾る船首も同じく骸骨。不気味な姿と、川からのヒンヤリとした風に思わず鳥肌が立った腕をさすった。

 息を殺してずっと待てば、程なくして幽霊船らしき船は到着した。誰か下船するか荷物が下ろされるのだろう。船から岸へと板が渡されるが、その作業も夜闇に白く浮かび上がる骨だけの手によるものだった。
 背筋にゾッと冷たいものが走るが、グッと拳を握って自らを叱咤する。
 そう、だって、一年も待った。とても辛かった、苦しかった。あの長い時間に比べれば、どんなことだって怖くはない。ここで頑張らなければ、会えないかもしれない。次はいつその機会が回って来るかさえ分からない。その方が、もっと、ずっと、怖い。
「…ヴィルヘルム」
 自分を優しく勇気づけてくれる、魔法の言葉を呟いてヘンリエッタは顔を上げた。
「ヴィルヘルム様〜、東の岸に着きましたぞぉ〜」
「ああ、ありがとう、みんな。ようやくあの娘に会えるんだ。本当にみんなのおかげだよ」
「へ?」
 決死の覚悟で忍び込もうと、機会を窺って澄ましていた耳に、聞き捨てならない名前と声が飛び込んできた。
 何も考えずに身を潜めていた茂みから飛び出し、ステップを駆け上がって抱きついた。
「ヴィルヘルム!!」
 ただ夢中で名前を呼んで、幼い子供のようにしがみつく。もしもこれが夢で、目覚めたときにひとりぼっちならきっと泣いてしまうだろう。
「…ヘンリエッタ、ずっと会いたかったよ」
 ヘンリエッタの耳に、名前を呼ぶ優しい声が届く。温かい腕が頭と背を包み込み、ゆっくりゆっくりと何度も何度も愛おしむように撫でた。
 一年間、会えなくとも心だけはヘンリエッタのことを想い続けて来た。勿論、以前のように他を疎かにしてしまうことはないが。それでも結局、別離の間でさえも彼の心は彼女に囚われていた。だが、その時間さえも霞むほどに、今ヴィルヘルムの世界は、胸に飛び込んできた少女だけになっていた。
 泣きそうな顔で呼ぶ声に、細いながらも懸命に体に回された腕、夜の風にふわふわと揺れる赤い髪が全てだった。だけれどまだ足りないものがある。
「ねぇ、顔をよく見せて、僕の可愛いお姫様」
 強く、しわが出来るほどきつく握りしめていたヴィルヘルムの服を放しても、温もりからは離れがたくて首を無理やり反らして顔を見上げた。頭を撫でていた手が、顎先から頬のラインをゆっくり辿って、目尻に溜まった涙を掬い上げる。
「泣かないで」
 笑顔を見せて。柔らかな微笑みを困ったように歪ませて華奢な背に回した腕に力を込める。
 確かにここにいるよ、安心して、だから―
「名前を呼んで、声を聴かせて」
 この腕の中の温もりも、柔らかさも、幻ではないと教えて。
「ヘンリエッタ」
 こうして名前を呼べるだけで幸せだから、幸せなのに、もっともっとと求めてしまう、欲深い自分。それすら受け入れると言ってくれた少女をようやく腕の中に取り返せた。それだけで本当に心の底から幸せだ、だけれど―。
 堂々巡りする思考を放棄してヴィルヘルムは愛しい少女の顔を見つめた。いくら考えても結局は無駄だ。この少女からの答えだけがその輪を断ち切ることが出来るのだから。
 その唇が小さく開かれるのを、目と耳に神経を集中させて待つ。
 強請るような、願うような言葉に、言わなければ、とヘンリエッタは思う。だが、口を開けばまた涙が溢れてしまいそうで、とてもじゃないけれど呼べそうもない。悲しくなんかない、嬉しい。ただそれが強すぎて言葉は喉の奥から出てこない。名前を呼ぶだけでいいと言われてもそれだけではこの想いには足りない。きっと言葉では伝えられない。
 肩に手を伸ばし、爪先立って頬に口付ける。瞬かない唇に想いを託して。

『ヴィルヘルム、私の大切な、素敵な旦那様』


「こりゃ小娘!ヴィルヘルム様の気持ちを慮ってワシが黙っておれば調子に乗りおって!!」
「あ〜ら情熱的ねぇ。あたくしも言われてみたいわぁ、ヴィルヘルム様に!」
「婆さんも船長も、いい加減諦めたらどうかね…」
「そうですよぉ、馬に蹴られても知りませんよぉ」
「五月蝿いわい!こうなったらワシがヴィルヘルム様の目を覚まして差し上げねば…
 ヴィルヘルム様〜、そのような小娘など放っておいてワシと…」
「しばらく見ない間に変わったね、ヘンリエッタ」
「だって一年も会えなかったんだもの。少しは大人っぽくなったかな?」
「ああ、とても綺麗になった…でも少し悔しいな」
「どうして?」
「お前がこんなに綺麗になっていった間を、僕は知らずにいたんだなと思って」
「…ヴィルヘルム」
「完っ全に魔女さんが放っておかれてますね〜」
「あぁん、ヴィルヘルム様ったら、キレイになったなんてあたくし恥ずかしいわぁ!!」
「こっちは目塞いで、自分が言われてると妄想してやがる…」
「ヴィルヘルムしゃま〜!!」



 どうしてこうなった…?
 ゲームを封印状態のため、クリアしたときに印象に残った部分に依って書いているのですが…
 多分、「暴かれた仮面」の辺りの印象が強かったのでこうなったものと思われます。

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